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カテゴリー: 日々雑感

自問、そして悪足掻き


(2022年2月28日)

本当に人に恵まれているな、と思う。

特に前の職場を離れてからのこの5年、さまざまな方々のおかげで得難い経験を積ませてもらった。前の職場を離れる前からお付き合いのあった方々とはより深まったし、前の職場の関係者とのご縁も続いている。感謝感謝だ。

それでも最近、自分の立ち位置(というか居場所)、このままでいいのか、と自問することが多くなった。自分がやっていること、やろうとしていること、地理的な場所など…

しかし、その前に自分が何をやってきたのか、何ができるのか、ということを自問しなければならないと思っている。自分が「できる」と思っていることでも、他人からみれば「論外だ」と思われることだってあるだろうし、その逆、自分では全く自信のないことが過分とも思える評価をいただいたり…

ただ、私は「自分らしさ」というものを見極めようなどとは思っていない。「らしさ」というものは自分で判断できるものとは思っていないので。こんない言い方をすると怒られるかもしれないが、「自分らしく」を連発する方、それを「売り」する方は余程冷静にご自分を見極めていらっしゃるのだろうな、と羨ましくなる。

それでも、やはり自分のことは自分で分かっているつもりだ。「限界」とは言わないが、この歳になると何となく見えてくるものもある。だからと言って区切りをつけようなどとは思わない。「悪足掻き」と思われようがやるだけだ。私がそう思えるのは「音楽」だけだから。

自分の立ち位置(居場所)に対する自問、これはちょうど5年前にもあった(というか、振り返ってみれば、私は5~6年周期でこんな状態に陥るようだ)。体調も優れなかったこともあり、思い切って環境を変える決断をした。組織には迷惑をかけたが、この決断は自分にとって間違いではなかった。上述のように、組織にいたら(制約も若干あるので)経験できなかったようなことはたくさんあるし、多くの出会いもあったから。

よく決断できたものだ、能力も財力もないのに…

それこそ周りの皆さんのおかげだ。

今しばらく自問、そして悪足掻きは続くかもしれないが、どこかで何かしらの決断を、ということがこの先あるのかどうか…

その前に、なぜこんなこと書き連ねているのだろう
5年前に思い描いていたことを何ひとつ達成できていないのに…



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冬の記憶


(2021年10月25日)

やはり、というか…音楽は人の記憶や感情を呼び起こすもの、呼び覚ますものであって…。
人はそうして呼び起こされたものと向き合うことで自分の未来を想像・創造していくのだ。
それが音楽の持つひとつの「力」(正直、「音楽の力」という言葉は好きになれないのだが…)だろうと思う。


「記念日」や「アニバーサリー・イヤー」(自身にとっての)というものにはあまり頓着のない人間である私、最近になって、拙作『イマージュ 〜サクソフォーン四重奏のために』が作曲からちょうど20年にあたることに気づいた(この11月初旬が「初演」20周年/出版は2004年)。

一昨年の『Wind Band Press』さんでのインタビューでも触れているが、この作品は私の(創作上の)ターニングポイントのひとつになっている。そして、この曲がなければ、近年アンサンブル・コンテストで取り上げられるようになった『RONDO CHROMATIQUE』(サクソフォーン三重奏曲/Golden Hearts Publications刊)も生まれていない。

実は、『イマージュ』を書いた時期、私の生活は何かと乱れていた。荒れていた、とも言える。当時は会社員であった私、自分の先行きを模索していた時期でもあった。自分のことを誰かに打ち明けるようなこともなかったのだが、後年、この曲に触れた知人に「けんちゃん、この曲書いた頃は乱れていたんじゃない?」と言われ驚いたこともあった。結構見透かされるものなんだなぁ…(苦笑)

私はそれほど多くの作品を書いているわけではない。だからかもしれないが、ひとつひとつの作品を振り返ると、書いた頃の状況や心情は結構蘇ってくる(もちろん差はあるが)。

だから、『イマージュ』を振り返ると、当時を思い出し「寒気」を催したり…
ちなみに、タイトルには添えていないが「冬の記憶」という、いかにも寒そうな副題がこの曲にはある

『イマージュ』が呼び覚ます私の記憶…それはとてもじゃないが人様に誇れるようなものではない。しかし、ひとつ間違うと当時と同じような状況にならないとも限らない。

いや、そうならないために今一度向き合ってみるのだ。

それにしても、第四楽章(下の動画では 5’02”あたりから)の長い旋律(かなり「即興的」…?)、自分ではこれを超えるものをまだ書けていないと思っている。



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「第6回国際行進曲作曲コンクール」本選を前に


 (2021年6月7日)

今週末(6月12日)に迫ってきた「第6回国際行進曲作曲コンクール」のファイナル。

まずは、世界的に厳しい状況にある中、このコンクールの開催を決断し、ここまで準備をしてくださった”Amici della Musica, Allumiere”の皆さんをはじめアッルミエーレ市当局、審査員の皆さんには心からの敬意と感謝を申し上げる次第です。

今の気持ちを正直にいうなら、本当に落ち着かない(笑)

現地へ赴くことができないというのも理由の一つではあるのだが、複雑な感情が入り乱れている、というところだ。ひとりこのモヤモヤを溜めておくのも他の仕事に影響しかねないし、健康にもよくないだろう(笑)

だから、少し書き留めておくことにしよう。


複雑な感情になる一つの要因は、昨年来のCOVID-19をめぐる状況にあることは確か。実は、この状況がなければ、このコンクールのことを知ることもなかったかもしれないのだ。

COVID-19のためにできた時間を作品(厳密にいうと、お蔵入りしていた作品の手直し)のために使うことができたのは幸運だったのかもしれないが、やはり手放しでは喜べない思いは確かにある。

一方で、とても身の引き締まる思いもある。私と同じカテゴリー(コンサート・マーチ)のファイナリストの方々(や、彼らのこれまでの作品)について知れば知るほど、彼らと肩を並べることがいかに光栄なことであるか…。

そして、主催者やアッルミエーレの皆さんにとって今回のコンクールがいかに特別なものであるか、ということを各種記事で知ったことも、身の引き締まる思いがする要因のひとつ。

生きていれば「想定外」なことは起こるものだ。ある意味、日本から応募があったことは、主催者も「想定外」だったかも知れない。が、ここまで真摯に対応していただいたのは本当にありがたかった。応募する前から、「コンクールは開催されますか?」や「”グレード”について教示してほしい」といった問い合わせをしていたのだが、そのひとつひとつに丁寧な回答をいただいた。アッルミエーレの皆さんには怒られるかも知れないが、もしかしたら、一度もお会いしたことのないMaestro Rossano Cardinali(このコンクールを牽引してきた方で、昨年10月没)の導きだったのかも、などと勝手に思っている。

「私の作品はどのように受け止めてもらえるだろうか?」という不安な気持ちは不思議とない。「何かを感じてもらえるだろう」という気持ちは結構強い(笑)

今週末、私はライブ中継を視聴することになるが、アッルミエーレの皆さんとともに過ごす時間は私の音楽人生にとって特別のものになると確信している。

「アッルミエーレの皆さん!初めまして!いつの日か必ず訪れたいと思います!ありがとう!」



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広島ウインドオーケストラ第52回定期演奏会

音楽は聴く人がいて完成する」「聴く人の耳と心が音楽を完成させる」などと思いながら私は音楽活動をしてきた(つもりだ…)。

広島ウインドオーケストラの定期演奏会、生誕100周年のネリベルの作品のみで構成されたこの演奏会は、私の考えを再確認させてくれるものになったと思っている。

私はこの数年、欠かさず定期演奏会には足を運んでいるが、必ず「何か」を問いかけてくれる。「気づき」がある。大好きなオーケストラだ!

今回の演奏会もそうだ。翌日にローマ教皇が広島を訪問されるというタイミングもあり、自分の中でも一層意義深いものを感じた。


当日の演奏の素晴らしさは色々な方が書かれているので、私は別の視点から…。

有難いことに、当日のリハーサルを覗かせていただいたのだが、そこで、冒頭に記したことを再確認できた象徴的な場面があった。詳細を書くのは差障りがあると思われるので、私の経験をベースにどういうことかを記してみたい。

昨年の春先に、高校生たちとバルメイジェス作曲の「インヴィクタス」という曲の練習をしていた。

静かな冒頭部、やや不安定な和音の積み重ね、サクソフォーンの怪しげなソロのを経て全管楽器が突然8分音符二つ(D音→オクターヴ下のD音という推移)を強く打ち鳴らす場面がある。ここに「和声的な背景」を感じて演奏して欲しい。そう思っていた私は、奏者たちにD majorのコードとD minorのコードをそれぞれ添えて件の音型を聴かせて、「みんなはどう感じる?」と…。私自身が「どちらかにしろ」と言ったのではないが、半ば「強制」だ。しかし、確かに響きは一つの方向に向かうようにはなった。「半強制的」とはいえ、奏者たちが一つの方向性を持つことが大切だと思った。

マエストロ下野であればこのような場面、「そこをD major に感じるかD minorに感じるかは聴いていただくお客様によって様々(どう感じるかはお客様に委ねる)」と一言仰るけだろう。それ以上の言葉はない。

奏者への信頼以外のなにものでもない、と思った。そして、そのマエストロの意図をしっかり受け止め、考え、演奏に反映させる奏者たち。全くもって素晴らしい。

加えて、マエストロの「聴衆への信頼」がその一言からも分かる。「聴衆への信頼」、これ即ち、「音楽は聴衆それぞれの中で完成するものだ」ということだろう。私はそう思ったのだ、強烈に。

それが証拠に、この日の会場の「空気」といったら…。会場の皆が耳と心を開いた。「聴衆への信頼」を感じたからこそ、だと思う。そして、「聴衆への信頼」を感じたからこそ、「作品への信頼」、「指揮者、奏者への信頼」がより確かなものとなる。

本当に今回も気づきの多い、得るものが多い演奏会だった。

(2019年11月25日)

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「そうだったのか!」と「やっぱりね!」

この歳になると、新しいものを吸収しようという気持ちになれないことがある。

しかし、こと音楽に関してはまだまだ知らないことばかり、これまでの貯金(そんなにあるわけでもない…)を食いつぶすだけでは生きていけるはずがない。

まだまだ向上心、好奇心は持っているつもりだ。

ここ数年(大分県警を退職してから)は、自作の整理(ありがたいことに、いくつかの作品をGolden Hearts Publicationsさんで扱っていただいている)、演奏面で実践してきたこと、考えてきたことの整理を(時間をみては)やっているのだが、その過程で、自分の指針、というか支えになった書籍や音源等に再び触れることも多くなった。新たに手にすることも多くなった。

例えば、『20世紀の巨人 シモン・ゴールドベルク』もそのひとつ。特に「箴言」集や、彼から薫陶を受けた方々の話(彼の教え)は、貴重だ。

(DVDブック『シモン・ゴールドベルク講義録』にはさらに実践的な提言が豊富)

自分が実践する中で疑問に感じていたこと、解決することが難しかったことなどをクリアにしてくれる言葉も多い。

そうなのか! そうだったのか!」だけではなく、「やっぱりね!」ということも。

応用楽典 楽譜の向こう側 〜独創的な表現をめざして』もいい!

音程、和音、調、形式、強弱などそれぞれに「意味」があること、アウフタクトの意味…。ここにも自分が実践してきたことを確認できる内容にあふれている。そして、「そうなのか! そうだったのか!」だけではなく、「やっぱりね!」ということがここにも。

まだまだ、指針・支えとなっている書籍はあるのだが、様々な立ち位置の方々が様々な活動を通して、そして様々な言葉で書き記された内容、これらを自分なりに考察、実践していくと、次第にそれらが自分の中で繋がっていく(あるいは、「統合されていく」と言ってもいいかな…)ことに気づく。というより、「結びついた!」、「繋がった!」と感じた瞬間があった(それは、恥ずかしながら大分県警をやめる1〜2年ほど前…)。

実践→疑問→確認・考察→(再び)実践→(再び)疑問…

やっぱりこの繰り返しなのだ。

何も疑問を持たないままこれらの書籍に触れるのと、疑問を持ちつつ触れるのとでは、感じ方は(あるいは捉え方)は全く違うと思う。

いまだに音楽は不思議で謎だらけだ。

だから続けていられるのかもしれないし、そうであるうちは時々これらの書籍、あるいは音源などに触れ続けることになるだろう。

そして、自分の考え方、実践(経験)もいずれまとめていくことにしよう。

(2019年10月17日)

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広島交響楽団「Hosokawa × Beethoven」2

広島交響楽団のディスカバリーシリーズを聴く。

細川作品に会場は引き込まれる。

(演奏前の作曲者とマエストロ下野の対話が有り難かった。)

しかし、驚いたのは最初の「レオノーレ第2番」。

率直に言って、前回(5月)とはオケの音を含め演奏のクオリティが数段上がっている。迷いがない演奏と言ってもいい。

これは、後半の交響曲にも言えること。

「きっと、細川作品に取り組むことがベートーヴェンの演奏にもいい方向に作用しているのだろう」と感じた。

終演後の楽屋にて、マエストロ下野にそう伝えると、

「現代の、そして無調の作品に取り組むことで奏者の耳が開くと思う。調性に対する感覚が敏感になるはず(そうでもない奏者もいるかも…)。それはお客様も同じではないかな?」と。

情報過多とも言える現代、私たちはむしろ耳を閉ざしがちだ…。

耳を開くことは心を開くことに通ずると思う

心を開けば互いを理解し合えるだろう(賛成とか反対とかではなく)。

互いを理解し合えれば無用な争いはなくなるはず…。

広島という地で改めてそう感じることができたことは、素晴らしい演奏を聴くことができたことと併せて収穫だ。

(2019年10月5日)

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コピー問題に絡んで…

楽譜の「コピー問題」とは少し性質が違うかもしれないが、20年前のちょうど今頃、課題曲に採用された拙作の楽譜を「演奏してあげるから下さい」と悪びれことなく言ってきた方が数名いた(中には全国大会に出場するようなバンドの指導者も)。当然お断りした。 ※当時、課題曲は3月から発売されていた。

まぁ、「コピー問題」と根っこは同じなのかもしれない… 楽譜にお金をかけたくない、ということか…? それとも、課題曲に関しては、お金払って買うほどのものではないと思われている…?

年2月12日)

実際に経験した話。

「おたくの団に〇〇の楽譜があったら貸して」

「〇社のレンタル譜だから持っていない。手続きしてレンタルして下さい。」

「それはは知っているけど、急いでるし高いし手続きが…。」

「ちゃんとやりましょうよ。」

「他を当たってみる。」

「…」

電話の主は指導者、かつ校長先生だ…。

創作する者としては、「少々高価であっても楽譜を買いたい」と思っていただける、質の高い、良いものを提供できる努力だけは続けないと、と思う次第。

(2019年2月13日)

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広島交響楽団「黄昏の維納」8

広島駅に降り立った途端、寒さが身にしみた。

身をもって感じることで「暖かさ」の有難みを知る。

身をもって苦難の時を経験したからこそ「平和」ということの有難さを知る。

ここに来ると、苦難を経験をされた方々が語ってこそ「平和」という言葉が意味を持つのだ、と思わずにはいられない。

シェーンベルクの作品を聴いてこれほどの心揺さぶられたことはなかった。

「12音音楽」がどうだこうだ、など関係ない。きっとシェーンベルクはその時この作品をこう書くしかなかったのだ、との思いを強くする。

これはシェーンベルクに限ったことではないかもしれないけど…。

これは、「一体感」などというものではないなぁ…。

作品と奏者、そして聴衆それぞれの「緊張感」が絶妙なバランスを保っていた、と言ったらいいのかな…

それにしても、川久保賜紀さんのソロといったら…。

言葉を失う。

奏者にも聴衆にも相当の集中力が要求されるが、マエストロ下野のプレトークに助けられた人は多かったと思う。厳しい音楽だが、終演後不思議と「疲れ」はない。

これまで聴いた広響の演奏会では恐らく感じたことのない空気…最高。

(2019年1月25日)

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広島ウインドオーケストラ第49回定期演奏会

昨夜から広島入り。

今日は広島ウインドオーケストラの定期演奏会。毎回気合いが入る。

今回も魅力的なプログラムだ。

今回も、まずこちらに寄って様々に思いを巡らせることから始める。前日入りするのは、ここに行く時間を作るためだ。

ところで…、

「いいかげんにしろ!」発言の主は、地元選出で同世代。しかもファミレスチェーンの御曹司だ。「あなたの会社はお客様の声に「いいかげんにしろ!」と言える会社なのですか?」と問うてみたい。取り繕った時点(いや、それでなくてもか…)で国会議員としても会社経営者としても失格だ。

あのようなヤジが「つい」口を突いて出てしまうのは、確たる信念もないくせに自己アピールしようという衝動だろう。「なぜ国会議員になったの?」とも問うてみたい。

自分でも、自らの思いを十分な言葉で伝えられないもどかしさを感じることが多々ある。言葉を選ぼうとすればするほどドツボにハマることも…

それは、音楽でも同じだと思ったりする。

「時代」特有の言葉や言い回しというものはあると思う。今の時代の特に若い世代の皆さんの感性に響く作品は、やはり今の時代の言葉で語られているからだろう。それはそれで素晴らしいことだと思う。しかし…。

それなりに歳を重ねてくると、今の言葉や言い回しも、歴史の積み重ねによって変化していったのだ、ということが、自分なりに何となく理解できるようになってきたかな、と思うのだ。

だから…

音楽の興味も、むしろ古いものの方へ向かっていく。古いものを知ることで、「今」を「未来」をもっといいものにできるかもしれない。

(広島に来た時、必ず平和公園に立ち寄るのは、自分のそうしたら気持ちを確認するためでもある)。

「今」の言葉で彩られた音楽をより自分のものにしようと思うのであれば、作品の背景やストーリーを知ることももちろん大切だが、「古い」言葉や言い回しの音楽に触れてみることだ。もしかしたら、それらを「新しい」と感じることもあるかもしれない。

だから、今日の広島ウインドオーケストラの定期演奏会は、「今」の言葉で埋め尽くされた音楽にしか触れたことがない人にこそ聴いてみてほしいと…(当日に言っても仕方ないか…)

きっと、それぞれに「新しい」発見があるはずだから。

(2018年6月23日)

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「意味づけ」

アクセントやスタッカート、テヌートの「意味づけ」に一生懸命になる指導者はいるが、何も付されていない音こそどう「意味づけ」るか…の方がはるかに重要だと思う。そこに気づいていない指導者は意外に多い気がする…。

「記号の付された音はこうだろうから、周辺の(記号が付されていない)音はこうだろうか…?」「付されていない音はこうだから、アクセントやスタッカートはこのようにできるのでは…?」というように、2方向からのアプローチが必要なのかもしれない。

ただひとつ言えるのは、何も記号が付されていない音を「意味づけ」する方が、はるかに「想像力」「創造力」を要する、ということだ。

(記号で覆われているような「現代曲」にはまた違ったアプローチも必要だろうが…)

(2018年6月7日)

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