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カテゴリー: colmn / essay

「意味づけ」

アクセントやスタッカート、テヌートの「意味づけ」に一生懸命になる指導者はいるが、何も付されていない音こそどう「意味づけ」るか…の方がはるかに重要だと思う。そこに気づいていない指導者は意外に多い気がする…。

「記号の付された音はこうだろうから、周辺の(記号が付されていない)音はこうだろうか…?」「付されていない音はこうだから、アクセントやスタッカートはこのようにできるのでは…?」というように、2方向からのアプローチが必要なのかもしれない。

ただひとつ言えるのは、何も記号が付されていない音を「意味づけ」する方が、はるかに「想像力」「創造力」を要する、ということだ。

(記号で覆われているような「現代曲」にはまた違ったアプローチも必要だろうが…)

(2018年6月7日)

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シモン・ゴールドベルク/保科洋/カレル・フサ

最近、シモン・ゴールドベルクの録音を集め始めた。これは晩年1991年(82歳)の録音。何という奥の深さ。

人格が音楽に現れるとはこういうことなのか…(もちろんお会いしたことはないけど…)私はまだまだ音楽のことを何ひとつ分かっていない…、とさえ思わされるのだった。

シモン・ゴールドベルクという人に関心を抱くきっかけとなったのがこの本⬇️

特に「箴言」集や、彼から薫陶を受けた方々の話(彼の教え)は、私が音楽をやっていく上での指標のひとつになりつつある

(2018年5月9日)

饒舌多弁ではない。本質を突いたかのような真摯な語り口だ。

最晩年のライブという情報が先にあるからだろうが、音の擦れ具合いや微妙な音程の不安定さまでが「味」として感じられるのが不思議…

シモン・ゴールドベルクという人の生き様を見せつけられる思い。

(2018年5月11日)

保科洋氏の「読み聞かせの語り口」には、ゴールドベルクと相通じるものを感じる。

それにしても、「交響曲第2番」の崇高さといったら…。このような作品はもう生まれてはこないのではないか、と思ってしまう。

話は2月に遡るが、保科氏の『交響曲第2番』とカレル・フサの『プラハ1968年のための音楽』が並べられた『桃太郎バンド』の演奏会を大阪で聴いた際強く思ったのが、「こうした作品は今後生まれてくることはないだろうなぁ…いや、生まれてくるような世の中にしてはならないのだ」ということ。そして、作曲家お二人が歩まれた苦難の時代を(当然ながら)体験していない世代(演奏者も聴衆も)が作品や演奏を通じて語り継いでいかねばならないのだ、ということ。そういう意味でも2月の『桃太郎バンド』の演奏会は意義深いものだった。

(2018年5月11日)

「フォルテやピアノは物理的な音量だけではない。その曲その場面に相応しいであろう色・質感こそ大切」という実は当然のこと(しかし、なかなか実現できない…)を思い知らせてくれる下野氏&広島ウインドと保科氏&フィル浜の演奏。

「強弱」の感覚は作曲家によって当然異なるし、演奏者によっても異なるのだから、色合いや質感、性格といったものをまず考える…と一緒にやってきた仲間たちにも言ってきたっけ…。

曲が違えば同じフォルテの記号でも同じ音にはならない…当たり前なのだけど。

(2018年5月14日)

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「古典」を学ぶ

確かに「古典」を学ぶことで、演奏に活かせるアイディアが増えるような気がする、今更だけど…

「古典」の言葉遣い、言い回しなどは吹奏楽の世界でもっと活かすことができるのでは…

(2018年5月4日)

「古典」を自分なりに学んで感じたこと、それは、今まで「こうしなければならない。」という先入観(なんとなく身に付いていたもの)にいかに縛り付けられていたのか、ということ。

「古典」って厳格な面は多々あるが、自由度が高いのも確か。上手く応用できないものかと試行錯誤の1年だった…

(2018年5月5日)

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広島ウインドオーケストラ/ミッドウエスト

5年前浜松で初めて広島ウインドを生で聴いた。その時のメインはジェイガーの「交響曲第1番」だった。今日(そしてシカゴ)のメインも同じ曲。

どれほどの進化を見せていただけるか、期待は大きかった。

今日の広島ウインドを聴けた方々は本当に幸せな時間を過ごせたのでは、と率直に思う。

鳥肌が立つような感動ではない。しかし、心と記憶に残るであろう演奏会であったのは確か。言葉にすることは難しいが、心の深いところに強烈なメッセージを送られた感が。

こんな経験今までなかったかもしれない。

音というものは時に言葉以上に人々の心に刻み込まれる。良い記憶も悪い記憶も音や音楽によって呼び起こされるものだ。良くも悪くも音に溢れた今、下野氏と広島ウインドから生まれる音楽に触れた方々が、「轟音や銃声、悲鳴などまっぴらごめんだ」、となればいいな…そう感じた。

シカゴでは多くの方々がそう感じて下さることを願わずにはいられない。

やはり、下野氏と広島ウインドにしかできないことなのだ、と思っている。

(2017年12月16日)

シカゴ交響楽団の演奏会、これはエンターテインメントの領域でなんとなく日本の吹奏楽の現状と同じような匂いに感じた。オケは確かに素晴らしいが…

この日、ミッドウェストクリニックでの広島ウインドオーケストラの演奏に触れているだけになおさらだ…

シカゴ交響楽団の演奏会にはミッドウェストクリニックに参加していた日本の吹奏楽関係者もいらしたようだが、あの演奏を手放しで喜んでいるようでは…なんて思わざるを得ない。繰り返すが、オケ自体は確かに素晴らしい。が、肝心の「音楽」が…(色々な事情はあるのだろうが…)。

実は、今回の広島ウインドオーケストラのミッドウェストクリニック出演に同行させていただいた(そこで感じたこと、収穫などは追い追い呟くとしよう)。シカゴ交響楽団の演奏会と併せ改めて「音楽」にどう向き合うか、ということを考えるきっかけをいただいたように思っている。ひとつの収穫だ。

「エンターテインメント」を私は否定しているわけではない。全てが「芸術的」である必要もないと思っているが、個人的にはそれに相応しい場や曲というものもあるのでは、と…。

そして、聴衆への問いかけ…。以前にも呟いたが、私が広島ウインドに魅力を感じるのは、様々な問いかけをしてくれるから。

その問いかけに自分なりの解答を出すという楽しみが広島ウインドを聴く醍醐味なのだ。

そのために、私たちはもっともっと耳を開かねばならない。耳を開くことは、自分の心に問いかけることにもなるはずだ。そうすることでより「音楽」を深く感じることができると信じている。

シカゴ、ミッドウェストクリニックで広島ウインドを聴いた方々は耳を開かざるを得なかったと思う。それほどの問いかけに溢れるプログラムと演奏!

そして、聴いた方々が自らに問いかけをしたことと思う。それほど深い「音楽」だった。

またとない経験だった。

(2017年12月26日)

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「感情」と「理性・知性」

音楽には「感情」と「理性・知性」いう2つの面からのアプローチが必要だなぁ、と最近よく思う。そのバランスの取り方が「個性」だ、とも。

これは、「演奏」という行為だけではなく、「作曲」という行為にも当てはまる。

ということは、選曲という過程においても、「感情」と「理性・知性」が問われることになるわけだ。

演奏する者としては、聴いていただく方の「感情」を揺さぶり、「理性」に何かしらを訴えることが大切であり、自らの「感情」「理性」をただ吐き出すだけ、ということはしたくないのだ。受け手がいてこそ音楽なのだ

「カッコイイ」や「綺麗」も大切な要素ではある。直感も大切。しかし、それらをどう掘り下げるか、つまり、なぜカッコイイのか、綺麗なのかを探っていくことが演奏をより深いものにしていくのではないかと思う。

(2017年9月17日)

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クロード.T.スミス

今年はC.T.スミスの没後30年、ということを思い出した。

大学時代、秋山紀夫先生の講義の際「昨日亡くなったそうだよ…」と聞かされた。

実は、私の父(3年前に他界)と同じ歳ということもあり、当時は少々ショックを受けた。

ただ、この年の夏に亡くなったパーシケッティの死を、やはり秋山先生の講義の際に聞かされた時の方がショックは大きかった…。

秋山先生の講義を受講していた時代の思い出のひとつは、バリオホールでのJBAの総会の際に開催されたエール大学のコンサートを聴かせていただいたこと。カレル・フサが客演で「プラハ1968年のための音楽」と「アルト・サクソフォーン協奏曲」を自作自演。

その日、フサご本人とソリストだったユージン・ルソーからいただいたサイン(パンフレットにだけど…)は今も大切にしている…いや、あのダンボール箱の中に保管…。

C.T.スミスに話は戻るが…

私見だけど、彼は決して器用な作曲家ではない。器用でない分人間味溢れている。超絶技巧とは言われるものの、人気の理由は彼の人間味にあるのではないかと…。それは昨年、広島ウインドオーケストラ(秋山和慶指揮)で『ルイ・ブルジョワの賛歌による変奏曲』を聴いた際、強烈に感じた。

(2017年9月12日)

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広島交響楽団のCD ベートーヴェン『交響曲第5番』

5月に広島交響楽団を聴いた際、会場で購入したCDをようやく、じっくりと聴いてみる。

指揮者なしのベートーヴェン、いいね。

精神性が強調され、説教臭くなりがちなベートーヴェンに少々辟易している私には、この演奏、とても優しい言葉で語ってくれているように感じる。

ベートーヴェンの『第五』、最初の小節は八分休符から始まる。かつ、その小節自体が「アウフタクト拍」だと理解している。その様に聴かせる演奏にこれまで出会った記憶がほとんどない(聴く側の能力の問題も多分にあったとは思うが…)が、広島交響楽団のこのCDは、思い通りの出だし。「運命」という俗称に変に影響されていないようにも感じる。

そう言えば、そのベートーヴェンの『第五』の冒頭のモティーフ、佐伯茂樹氏の著書によると、「キアオジ」という鳥の鳴き声をヒントに思いついた(弟子のツェルニーの証言)という。自称秘書のシントラーが語った「運命が扉を叩く音」の信憑性はないとも…。

(2017年8月12日)

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「音楽のことよく分からないのですが…」

「音楽のことよく分からないのですが…」とおっしゃる方の評価ほど重いものはない、と思いながら仕事をしてきた。

「良かった」や「悪かった」、「好き」や「嫌い」がストレートに伝わってくるから。

それは、言葉だけではなく、場の空気となって伝わってくることもある。

そうした評価は時に、自らが信頼する人や師匠の下す評価以上に意味を持つこともあるのだ。

そして、それらに耳を傾けるだけの度量を持てるかどうか…、それがかなり重要だ。

「音楽を知らない人があれこれ言うな」という気持ちは持つべきでない。それは、自分が他者や他の事象を評価できる権利を放棄することに等しいのだ。

(2017年8月4日)

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 「室内楽伴奏によるシューベルトの夕べ」    /ナタリー・シュトゥッツマン

ナタリー・シュトゥッツマン(コントラルト)の、室内楽伴奏によるシューベルト歌曲の夕べを聴く。

大袈裟なようだが、まるでシューベルトが彼女のために作曲したかのような…。

最大でもピアノ五重奏という編曲も、シューベルトがそれを望んでいたのでは、と思わせる…。

指揮者としても活動しているシュトゥッツマンだが、今夜の彼女は弾き振りならぬ、「歌い振り」。

客席を向いているので(当然)、聴衆もその指揮に引き込まれてしまう。

何という幸せな時間…。

(2017年5月9日)

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中田延亮指揮・九州管楽合奏団演奏会

中田延亮指揮・九州管楽合奏団の演奏会、期待以上だった

中田氏は吹奏楽の指揮が初めてとのこと、それだけに期待も大きかった

最近は実力者が吹奏楽を指揮することが多くなり、本当の意味で「音楽」に浸ることができる機会が増えたことは嬉しい。

(もっとも、昭和の時代から、朝比奈隆、山田一雄、秋山和慶と吹奏楽と深く関わってきた指揮者は結構いたのだけれど。)

今回の中田氏の起用は大成功なのでは。

音楽に向き合う、という意味で中田氏は特別なことは何らしていないと思う(もちろん相当な準備はされたはずだが)。

まず感じたのは、「頭のいい指揮者だなぁ」「バランス感覚に優れ造形術?に長けた人だなぁ」

だからといって、生まれてくる音楽は決して分析的ではないし、理屈っぽくもない。

相当緻密に計算されてはいるし、情報量の多い演奏だったことは確かなのだが、それを「自然に」聴かせるところが中田氏の力量なのだろう。

今日の曲目、下手すると前半で「もう勘弁してください」となること必至。しかし、「膨満感」を感じることはなかった。

(2017年5月14日)

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