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カテゴリー: colmn / essay

誤植


(2021年3月19日)

昨日一昨日とツイッターの方で写譜があまりにも酷い楽譜(團伊玖磨氏の行進曲)のことをつぶやいていたところ、Facebookの方では、(友達の)鍵盤奏者の方が、ご自身が演奏された『ダフニスとクロエ』のパート譜の誤植について触れておられた。老婆心ながらちょっと調べてみると、初版の際のミス(チェック漏れ)が修正されずにいるのではないか、ということが分かった(もちろん、断定はできない)。

彼女が演奏なさったのは「第2組曲」。実際に使用された楽譜は一昨年廃業したKalmus 社による「全曲版」のリプリントのようだ。

「第2組曲」の開始4小節は4分の4拍子(5小節目からは3拍子)なのだが、彼女の楽譜には最初から3拍子の表記。しかも、5小節目から段が変わるので「拍子変更」の予告もきちんと記されている。いやいや、困ったものです…

ところが、「第2組曲」単独の出版(1913年)の際にはこの誤りが修正されているのだ。しかも譜面をよく見ると、全曲版の版を利用しているのではないか、と思えるのだ。


ここからはあくまでも推測。

作曲の遅れもあり、ラヴェルと、ディアギレフ、フォーキンらとの間には結構「すきま風」が吹いていたようだ。バレエの上演も当初の予定から随分遅れたらしい(ちなみに、バレエ初演に先んじて「第1組曲」が公の場で演奏されていたようで、これが振付家フォーキンの怒りを買うことにもなったようだ)。

ラヴェルともなると、作曲したスコアから自分でパートを作ったりはしないだろう。書き上げたスコアはそのままDurand社に持ち込まれ、演奏用のパート譜が作られていたはずだ(ディアギレフがDurandとの契約破棄をほのめかしたことがあることから、当初からDurand社が関わっていたことは確かだろう)。

全曲の完成はバレエ初演予定日の2ヶ月前、ここから演奏用のパート譜を作るというのはかなり厳しい。時間との闘いだ。チェック漏れは必ず起こるというものだ。通常行われるはずの「校正」だって行われることはなかったのではないか…?
(現代のように、数日、内容によっては数時間でパート譜が作れるような時代ではないですからね…)

断定はもちろんできないが、よく耳にするDurand社の誤植の多さはこんなところに起因するのではないか…?


初演に際し問題点は出てくるものだ。それをチェックし、修正してようやく「出版」ということになるのが普通なのだろうが、どうも、この工程が抜けているのかな…?

確かに、一旦彫版したものに修正を加えることは大変だと思う。

ここでシェアした動画は、Henle社が公開しているものだが、おそらくDurand社でも当時同様の工程で楽譜が作られていたと思われる。なかなか骨の折れる作業ではないか。

Sharp as a tack – Japanese version

『ダフニスとクロエ』も当初は上演用に楽譜が作られはしたものの、最初から大量に印刷されたとは思えない(もちろん弦楽器などはプルト分刷られたはずだが)。バレエがしばらく再演されなかったことから、楽譜も重刷されることはなかったのかもしれない。

「第2組曲」はバレエ初演の翌年(1913年)に出版されている。バレエ第3場の音楽をほぼそのまま抜き出しているので、「全曲版」の版(銅版?)を利用していても不思議ではない。この時いくらかのチェックはなされたはずだ、時間的な余裕もいくらかあっただろうから。少なくとも単純ミス(例えば上述の拍子の間違いなど)は修正されているのだろう(細かく調べたわけではないのでご容赦を)。

ということは、「全曲版」を再版する必要が出た場合、新たに彫版する必要が出てくる。しかし、動画を見ていただくとわかる通り…手間とコスト、そして今後どれほど再演されるのかということを考えるとなかなか…ですよね。しかし、作品にとっては少々不幸なことかもしれないよなぁ、と思ってしまう。

結局、間違ったままの楽譜がいまだに流通している…。せめて「正誤表」みたいなものでも出版社が提供してくれれば、なんて思うのは私だけではないだろう。そもそも「第2組曲」を出版する際、どこがどう修正されたかの記録は残されていないのだろうか?


私は、冒頭に触れた写譜の酷い團伊玖磨氏の行進曲について、ホームページ内でそのことを綴った際こう締めくくっている。

「質の高い作品は大抵楽譜もしっかりしているものだ。」

どうやら、考えを改めないといけないようだ(笑)

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カレル・フサに会った日


(2021年3月9日)

ここに紹介するパンフレット、これは、1987年に行われた『イェール大学コンサート・バンド』の日本ツアーのものだ。
バンドにとって初めての「アジア演奏旅行」だったそうで、5月下旬から6月上旬にかけて、天理、金沢、松任、小松、宇都宮、東京で演奏会を行い、またレコーディングも行なっている。東京以外の地では、地元の高校と交流を深めたようだ。そして、録音はCDとして、同じ5月に来日したオハイオ州立大学のバンド(こちらは私の母校・武蔵野音楽大学でも演奏会を行った)のものと同時発売されたはず…。

当時私は大学3年生。秋山紀夫先生の講義を受講しており、その時の受講生数名と一緒に6月7日、東京・バリオホールでのツアー最後の演奏会を鑑賞した。

この日の演奏会は、「日本吹奏楽指導者協会」の総会に併せて開催されたもので、本来は「関係者のみ」なのだが、秋山先生にお世話いただき鑑賞することができたのだ(あくまでも授業の一貫として)。

このパンフレット、一応右開き(A4タテ)になっています。

表紙の絵、これはイェール大学がコレクションしている『PARADE OF THE RUSSIAN MISSION’S BAND IN JAPAN』(日本語の題がわかりません…)。

作者は、長崎でかのシーボルトの日本に関する研究を支えたとされる画家(絵師)川原慶賀(かわはら けいが)。彼が1850年頃に制作した木版画(多色)だ。
(こうした情報までパンフレットにきちんと載せているのはさすが!)

なかなか粋な作りのパンフレット(の表紙)だ。

右上にあるのは、この日のみ出演したカレル・フサユージン・ルソーの直筆サインだ!!

フサ自身の指揮で『プラハ1968年のための音楽』と『アルト・サクソフォーン協奏曲』を聴くことができただけでもありがたいのに、休憩中だったか終演後にロビーでにこやかに応対してくれた両氏。
(英語を話すことができれば…と、心底悔やんだのはこの時が初めてかもしれない。)

そして、フサのあの優しい笑顔と、『プラハ〜』のような厳しい作品とのギャップにも驚いたものだ。

今になって思うこと…、

それは、『プラハ〜』のような作品が次々と生まれるような世界にしてはならない、ということだ。そして、『プラハ〜』のような作品を通じて過去に学ぶことを忘れてはならない、ということも…。

音楽だけにとどまらず、文化・芸術は「時代の証人」という側面がある。庶民と時の権力者との「対話」でもあるのではなかろうか…。時にはそんなことを意識しながら音楽に向き合ってもいいかな、などと思っている。

そうそう、ルソーが西暦ではなく「S 62」と元号で日付を書いているのに気づきましたか?

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『ディオニソスの祭り』のこと


(2020年11月21日)

 ベートーヴェンの生誕250年の陰に隠れてしまっているが、今年はフローラン・シュミット(Florent Schmitt)の生誕150周年にあたる。吹奏楽に関わる者にとっては避けて通れない作曲家のひとりだ。

 この記念の年を特に意識していたわけではないのだが、私はこの夏から『ディオニソスの祭り(Dionysiaques)』について少し調べていた。

デュラン社版スコアの最初のページ(1925年出版)

 この作品、「ギャルド ・レピュブリケーヌ吹奏楽団のために作曲された」とされている。国内はもとより、海外での認識もほぼそれで通っている。

 この説明(解説)でひとつ引っかかるのが、「ギャルド」がシュミットに委嘱したのか否かがはっきりしないことだ。私はずっと疑問に思っていた。

 シュミットの作品(出版譜)の多くには、タイトルの上か左側に献呈の辞が記されている(これは何もシュミットに限ったことではないだろう)。『ディオニソス』は1913年に作曲されてはいるものの、初演は1925年。その年にデュラン社から出版されているが、特に献呈の辞は記されていない(シュミットの他の管楽作品の出版譜には記されている)。もちろんこれだけで、何か結論が出せるというものではない。

 ちなみに、初演前の1917年にはシュミット自身の手による4手ピアノ版がデュラン社から出版されており、ここには レオン=ポール・ファルグ(Léon-Paul Fargue)という詩人への献呈の辞が記されている。

4手ピアノ(連弾)版(デュラン社版)

 疑問に思う理由がもうひとつあった。

 1973年から1997年まで「ギャルド」の楽長を務めたロジェ・ブートリー(Roger Boutry)のインタービュー記事を読んだ記憶だ。そこにはこう書かれてあった。

「『ディオニソス』はシュミットが全く自発的に書いたもので、演奏が難しいことから「ギャルド」が初演することになった。」(要旨)

 私がこの記事を読んだのはおそらく、高校生から大学生の時期。『バンドジャーナル』誌ではなかったかと思う。『バンドジャーナル』誌はほぼ毎月購読していた。

 「ギャルド」は1984年(私は高校3年生)に2度目の来日を果たした。私の故郷・福岡でも公演があり聴きに行った(会場は、大相撲も開催される「福岡国際センター」)。インタビューが掲載されていたとすれば、この年以降のことだろう(ブートリー在任中に数回来日している)。

 ということで、『バンドジャーナル』誌の赤井淳副編集長に「記事を見ることはできないか?」と、相談してみた。

 赤井副編集長はお忙しい中快く記事を探してくださった。しかし全く見当たらない…。「日本の吹奏楽の生き字引」ともいえる秋山紀夫先生(私も大学時代に随分お世話になった)にまで尋ねてくださったそうだが、秋山先生も、「そのような記事は全く記憶にない」とのこと。
(まさか、違う雑誌だったのか…?それとも私の全くの勘違い…?)
 お手を煩わせてしまったこと、本当に申し訳なく思っている。



 私は思い切って、「ギャルド」に直接尋ねてみることにした。

 フランスでもコロナ感染が続き楽団の活動もままならない中、少し時間はかかったが、丁寧に対応していただいた。

 結論を言うと、「記録が残っていないため解答不能」とのこと(作曲されたのが100年以上前のことだから、それはそれで仕方ない…)。
 ただし、「楽団のために作曲された」との認識ではあるようだ。

 私の疑問は解消されなかったのだが、思わぬ副産物が!

 「ギャルド」が現在使用している『ディオニソス』のパート譜を送ってきてくれたのだ。

 ブートリー体制下で「ギャルド」の編成は大きく変わった(サクソルン族の削減)のだが、それによりどのように楽譜に手が加えられているかを知ることができる。

 それら全てをここで公開することはできないのだが、パートによって、オリジナル(1925年出版)のパート譜を使っていたり、手書きされたものや、コンピューター浄書されたものがあったりと興味深い。スコアはオリジナルのままだという。

 今後時間を作ってじっくり調べてみようと思う。そして、可能な限りホームページの方で紹介できれば、と思っている。

 それにしても、「本家」の「ギャルド」でさえ今やオリジナルの編成で『ディオニソス』を演奏することができない状況にあることには少々寂しさも感じる。しかし、考えてみれば、私たちはバッハやベートーヴェンの作品を現代の楽器で演奏するのが当たり前だ(当時の楽器を使った演奏にも私は魅力を感じるが)。
 吹奏楽がこれからどのような変化を見せるかは正直わからないが、時代の変化に耐えうるだけの内容、価値を『ディオニソス』が持っていることだけは確かだ。大切にしていかねば。

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第6回国際行進曲作曲コンクール”Città di Allumiere”                「コンサート・マーチ部門」ファイナリスト紹介


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(2022年5月1日記)

2021年🇮🇹イタリアのアッルミエーレで開催された「第6回国際行進曲作曲コンクール”Città di Allumiere”」、その「コンサート・マーチ部門」のファイナリスト5作品をご紹介します。入賞以外の作品の順位は公表されておりませんので、お名前(Last Name)のアルファベット順にしております。

審査員
マッシモ・マルティネッリ氏(カラビニエリ吹奏楽団音楽監督/イタリア)
ヤコブ・デ・ハーン氏(作曲家/オランダ)
マルコ・ソマドッシ氏(作曲家・指揮者/当コンクール芸術監督/イタリア)


第1位
Dolomiti (Georges Sadeler / ルクセンブルク) 


第2位
Shining soul 4 (Ken’ichi Masakado / 日本)


ファイナリスト
IL CAPOBANDA (Walter Farina / イタリア)


ファイナリスト
Rebirth (Davide A. Pedrazzini / イタリア)


ファイナリスト
Take Away (Marco Tamanini / イタリア)



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三拍子の話 〜第15回/最終回〜


演奏、音楽表現には「理知的」アプローチと「感情」面からアプローチが必要だと思っている。

そのバランスの取り方こそが「個性」となって現れるのではないだろうか。

「理知的」アプローチ、これは言い換えると「構造」をとらえるということ、「様式」や「理論」に基づいたアプローチ、ということだ。

「骨格」となるのが「拍節」だ(もちろん、普段私たちが接している音楽に見られるような「拍節」を持たない音楽もあるが)。

「骨格」というのは、人体に置き換えると分かるのだが、決してそれ自体が表に現れてくるものではない。しかし、全体を見ればどのような骨格かは結構分かるものだ。

「拍子」だってそのようなものだろう。
(そう思うと、「拍<節>」とはよくできた言葉だ。骨同士は「関<節>」でつながっている。)

「感情」面が優位になると、「骨格」に無理がいく。私のような年代になると痛みが和らいでいく速度も遅くなる。
(多少の無理や刺激は必要だ。それにより、自分の骨格がいかに弱くなっているかを知ることができるというものだ…)

一方、「骨格」が強調されすぎると、人を寄せ付けない冷たい奴、面白みのない奴だと思われることもある(そこが面白いのだ、という人もいるだろうが)。

しかし、「骨格」がしっかりしていればこそ、自在に動きがとれるはずだ。それにより「感情」面からのアプローチも多彩になるだろう。

「第14回」で書いた、「私が現在考察していること、これから考察しようとしていることは多々あるのだが、私の中では、そのほとんどがこうした「拍節」や「リズム」の問題が大いに関わってくる」背景にはこのような考えがあるからなのだ。

「拍節」や「拍子」については、考えているようで意外に疎かになっていたなぁ、と自分では思う。目まぐるしく「拍子」が変化するような曲に向き合うときはとても気にするのだが…。

おそらく「拍節」や「リズム」に関する考察は尽きることなく続くことだろう。音楽に限らず、人間の生命の根幹でもあるとも言えるのだから。

(そうした、ある種の「解けない謎」が学問を発展させ、またそれにより人間を成長させたのだろうと思う。「謎」は「謎」のままでもいい、だからこそ面白いのだ、と最近は思うようになった。)

日本人と『三拍子』関係を考察するところから始まった話、何ら結論めいたものを導き出したわけではないが(結論は出ない)、現時点で私なりの方向性はある程度出せたと思っている。
とは言え、ドイツの哲学者で『リズムの本質』などの著書で知られるルートヴィヒ・クラーゲスや、『リズムはゆらぐ』などの著書があるヴィオラ奏者の藤原義章氏などに大きな影響を受けながら、本稿では言及することはなかったし、ジャック=ダルクローズリュシーについても考察できていない。
今後さらに掘り下げていくことができるだろう。その過程で、考えが変わることもあるだろうが、その時はまた綴っていこうと思う。
そして、私が「これから考察しようとしていること」に反映させたい。


最後に、ある尺八奏者の方の言葉を…

「実際に音楽をしようとしたら、3拍子どころか、2拍子だって、4拍子だって簡単にできません。」

「苦手な理由ははっきりしています。練習してないからです。」

「楽器を手に取ってから、4拍子を基礎とした練習しかしてないからです。」

「4拍子に偏る基礎練習をやめましょう。基礎練習の時に、3拍子系の音出し、運指練習をとりいれてください。」

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(終)


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三拍子の話 〜第14回〜


「拍節」や「小節」、「拍子」、あるいは「リズム」という言葉を定義(少々肩苦しいが…)するのはなかな難しいものだ。

私もここまで随分と曖昧なままで使ってきた。
それぞれが、昔からいろいろと研究され語られてきた。
様々な考え方がある。

どれが正しいとか間違っているなどと言うことも困難だ、正直今の私には。
ただ、これだけ語られていると言うことは、それだけ「拍節」や「リズム」などの問題が音楽の、音楽表現の根幹に関わるからだろうと思う。

この『三拍子の話』に限らず、私が現在考察していること、これから考察しようとしていることは多々あるのだが、私の中では、そのほとんどにこうした「拍節」や「リズム」の問題が大きく関わってくる。


例えば、私の活動の中心になっている吹奏楽のフィールドでは、最近「指南書」的なものが多く出版されている。昨今の部活動を取り巻く状況を鑑みるに、こうした「指南書」の類はとてもよくまとめられていると思う(部活動に特化したノウハウや心構えなどに少々偏りすぎかな、と思うものもあるが…)。

また、吹奏楽コンクールの時期になると、課題曲を中心に、「このように演奏すれば効果的」といった「虎の巻」的な出版物、動画なども出てくる。

これらをもとに勉強し、練習し演奏しても「差」は出てくる。
なぜ…?
もちろん、楽器演奏の技術習得の度合いもあるが、圧倒的な違いは、「指南書」等を活用する以前の下地ができているか否かにある、と思っている。

基本的な「理論」に裏付けられた演奏か否か、と言ってもいい。

「理論」に裏付けられた演奏と言うと、何やら堅苦しく感情を抑えたような演奏と考える人もいるかもしれない。表面上整えられただけの演奏と感じる人もいるだろうが…。


私たちは「文法」を学ぶことなく、言葉を身につけコミュニケーションをとることができるようになった。「文法」を知ることでよりコミュニケーションがとれるようになったのでは…?

(「文法」という言葉には、自分でも拒絶反応が出てしまうけど…。ただでさえヘタクソな文章綴っておいてよく言えたものだ…)

「理論」と「文法」はイコールとは言えないのだが、これらを知ること、身につけることでよりコミュニケーションがとれるようになるのではないか、と思う。

もっとも、自分がどれほどのことができているだろうか…。


「第9回」の最後の方でつぶやいたように、「音楽理論というものは、「人間の感覚」によって体系づけられ、また否定もされるものなのかもしれない」。

最終的には、「自分なりの理論・文法」を持つことが必要なのだろう。
ちなみに、「自分なりの理論・文法」をしっかり持っている作曲家の方は、大抵文章も素晴らしいものだ(自分で書いていて耳が痛い…)。

(そのためにも、時代を遡ってみること、振り返ることが大切なのだ。いつの時代もそうなのだが、私たちは常に「過去」と向き合っているはずなのだ。「新しい」音楽が現れたところで、音になってしまえばそればそれは「過去」のものとなってしまう。「過去」と向き合わずして「未来」はない。これは音楽に限ったことではない。)


吹奏楽のフィールドにおける「指南書」的なものの多くは「理論」面にまで踏む込んだものとはいえない(「和声法」や「形式論」などに特化したものはあるけど)し、「音楽表現」に関するところまで踏み込んだものはまずお目にかかれない。

著者(多くは演奏家)それぞれの「理論・文法」があるので、簡単に踏み込むことができないのだ。自らが長年の経験で培ってきた「手の内」を簡単に明かすことはできない、とうい人もいるだろう。

様々な考え方を集めて一冊にすることもできるのだろうが、それはそれは分厚い本になるだろうし、読む気も失せるだろうなぁ…
(だからこそ、やってみる価値はあるかもしれないけど…)

そんな中、今年8月に亡くなられた佐伯茂樹氏の『金管楽器 演奏の新理論』と『木管楽器 演奏の新理論』は、このフィールドで、これまでにない視点で書かれた素晴らしい著書だと思う。

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「第15回」/最終回につづく

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三拍子の話 〜第13回〜


先頃亡くなったピアニストのパウル・バドゥラ=スコダ(私はこの人のモーツァルトやベートーヴェンの録音をきっかけにフォルテピアノの音に惹かれた時期があった)は、「音楽表現には音量の変化や呼吸の感覚が大切」であること、「楽譜には書かれていないにもかかわらず、演奏の際に反映しなければならない必須のデュナーミク − インネレ・デュナーミク innere Dynamik」の重要性について語っている。

「インネレ・デュナーミク」とは「音価、リズム、和声や音程などによって変化する微妙な音量の差違」ということであり、「音楽の自然な表現力は、このデュナーミクによって初めて与えられる」とバドゥラ=スコダは言う。(「ベートーヴェンの強弱法」に関する講演)

アーノンクールが、(バロック期の)拍節の「強弱関係」に「ヒエラルキー(階級制)」の存在を指摘し、「こうした厳格な強調の図式に従って演奏されるならば、おそらくとても単調なものになるであろう。」と著書に書いていることは既に「第5回」で触れたが、ここで彼が、その単調さを回避するために必要なこと、そして「強弱のヒエラルキー」の上に立つものとして述べているのが、第一に「和声法」次いで「リズムと強勢法」だ。

言っていることは二人とも同じであると考えて良いだろう。

バドゥラ=スコダもの話も、拍節における基本的な「強弱」関係の存在が前提となっている。


大演奏家二人の話を通して、心得ておきたい大切なことは、基本的な「(拍節における)強弱関係」を守って演奏するだけでは音楽表現はできない、言い換えると、曲の性格やイメージを演奏者がしっかり読み取り、基本的な「(拍節における)強弱関係」と「インネレ・デュナーミク」とを上手に組み合わせる(作用させ合っていく)ことなのではないか、と私は思う。

これは作曲(には限らないが…)をする上で学ぶ「和声法」や「対位法」にも言えることだ。

私たちが通常学ぶ「和声法」や「対位法」も、ある特定の時代にまとめられたものが基本となっている。そこには「禁則」も盛り沢山だ。

意図的に「禁則」を使うということはありだと思うし、歴史的に見ても、「規則」をはみ出すことで新たな創造を行なってきた大作曲家がいることは述べるまでもない(もっとも、「何も考えていないな」、「本人は気づいてないんだろうな」と思うような曲も最近の吹奏楽にはあるが…)。

私たちが現在お世話になっているいわゆる「楽典」に書かれている内容も、どこかの時代で取りまとめられたものであり、もしかすると(「第7回」で触れたスタッカートのように)何らかの経緯で「標準化」されたにすぎないのかもしれないし、本来の意味から変容しているものもあるかもしれない。

一度、古い時代の「理論」に触れてみることは、(「第9回」の最後でつぶやいた)「そういう決まりになっているから」と、無批判に理論を受け入れがちな私たちを、むしろ「解放」してくれることになるのではないか、と思っている。

「音楽において、日本人は三拍子が苦手だとよく言われる」という、最初の話。これは「理論」ではないが、果たして私たちは無意識に(無批判に)この話を受け入れているだけではないのだろうか…。
(まぁ、それをここまで考えてきたのであるが…)

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「第14回」につづく

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三拍子の話 〜第12回〜


ある「拍」が次の「拍」に向かう(小節線をまたぐ、つまり次の「一拍目」に向かう時に限らない)ための「準備」…この「準備」のために意識すること、これは、「拍」が「点」ではないということだ。

「拍」には(時間的な)幅があることを私たちは忘れがちだ。

拍:『音楽で、個々の音の持続(時間的な長さ)を規定する基本単位。多くの場合は等間隔の脈動で、手などを規則的に打ち鳴らして数えることができ、その長短がテンポ(速度)の遅速につながる。』(大辞林)

この「幅」を意識しない限り、実際の音で表現しようとしても音楽的なつながりは希薄になる。手拍子の「パンッ!」なり、指揮の「打点」は、「拍」そのものを示しているのではなく、単に拍の初め(拍頭)を示しているに過ぎないのだ。

齋藤秀雄が『指揮法教程』を作る際助手として関わった紙谷一衛氏は、「叩き」(斎藤が指揮の運動を体系づけた中のひとつで、最も基本的なもの)や「打法」という言葉が誤解を生んでいると言う(紙谷一衛著『人を魅了する演奏』より)。

となると、やはり「いちっ、にっ、さんっ」という言葉の影響は大きいかもしれない。

「拍」が、音の持続(時間的な長さ)を前提としているなら、そこに言葉を当てはめた時、その言葉は必然的に「長さ」を持つことになる。

したがって、一番最初(「第1回」)で紹介した、ピアニストの方の提案、「いち、に、さ〜」と数えてみるということは、実に道理に叶うのだ。それをさらに押し進めて、私が「ひ〜、ふ〜、み〜」と数えたらどうか、と提案した理由は、まさにここにあるのだ。


少し振り返ってみよう。

いくつか取り上げたバロック期や古典派の時代の音楽家・理論家の著書、「拍節」に関する言及は、「個々の音の持続(時間的な長さ)」を前提としていないと一見受け取れる。

果たしてそうだろうか…。

「第3回」で触れたように、
①バロック期の拍子には、私たちが普段使う「拍子」とは異なる概念があった。
②テンポの基準となったのは、音符ではなく「小節」であった。
③このテンポシステムはバロック以前からウィーン古典派まで続いた。

あえて「拍節」と「小節」とを同義として述べるが、バロック期や古典派の時代の音楽家・理論家も「持続(時間的な長さ)」を十分に意識していたはずである。

彼らはあくまでも(私たちが普段使う意味での)「小節」を基準に、それを(二つないし三つに)「分割」することが前提であったのだ。

「小節」の持続なくして「分割」はできない。

私たちは(というか、現代の「拍節論」は)、その「分割」された「拍」を基準に、それをグルーピングすることで「拍節(小節)」を作ることを前提としている。

そもそも、考え方、捉え方が違うのだ、「分割」か「グルーピング」か、という点で。

バロック期のテンポのひとつの基準は人間の「脈動」、「鼓動」だったと言われている。「脈動」、「鼓動」1に対して1「小節」1、それを2ないし3に分割している。

「分割」、そこには周期的なものは生まれるが、回帰を示すような「準備」の意識は希薄だと言っていいかもしれない。
そして、血管のそれこそ「伸縮」のリズムを「強弱」で表現した、というのは少々考えすぎだろうか…。
まぁ、「縮」の時点で「伸」のためのエネルギーを溜めている、と考えれば、「次への準備」をしている、と言えなくもないが…。

話がまたまた逸れてしまったが、何れにしても、「拍」には「持続(時間的な長さ)」が必要だということは強調しておきたい。

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「第13回」につづく

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三拍子の話 〜第11回〜


仮に、一拍目に「音量的なアクセント」をつけて打拍するとしよう。

三拍目を打った後、両手の開きは一拍目や二拍目を打った時より大きいはずだ。次の一拍目に入るための準備をしているのだから。

この準備なしに一拍目に音量的なアクセントをつけることは、実はかなり難しいはずだ。

無理に続けようとすると、何だか「押しつぶされたような」アクセントになるように思う。

体にも余計な力が入ってしまう、弱拍とされる二拍目三拍目がもっとハッキリしなくなる(一拍目に力が入りすぎる分、「抜けて」しまうように感じられる)。
そのため一拍目にますます力が入る…、という具合だ。

「第10回」で書いた、「一拍目を合わせること、ズレないことに意識が向きすぎて」というのと同じ状況にも思える、これは何も「三拍子」に限ったことではないが。

「意識」する、「準備」するということは、何らかの「重さ」を伴う。それは、(僅かなものではあるが)音量的なアクセントだったり、長さであったり…。つまり、私(たち)が教え込まれてきた、刷り込まれてきた「強弱」の関係とは異なるものだ。


簡潔に整理すると…

「拍節」における強弱の関係、「(音量の変化を伴う)拍節アクセント」は、ある特定の時代の「音楽表現」の基本となったものであり、人間が本来持つ「拍節感」とは同じではない。

「拍節感(周期的な拍節、拍節の回帰性、と言ってもいい)」は、最初の(小節で言えば一拍目の)音に何らかの「重さ」を加えることではなく、小節の最後の拍が次の1拍目に入る「準備」をすることで生まれる(「準備」した結果、一拍目が強調されることは当然起こる)。

私は、そう考える。


余談かもしれないが…、水前寺清子の『365歩のマーチ』(おそらく二拍子系だろう)で、「ワン、ツー、ワン、ツー …」と繰り返される部分がある。

意識せずとも「ツー」の方が強調されると感じる人は多いと思う。
「ツー」が強調されることで「回帰性」が生まれているように思うのだ。

これは、「ツー」という言葉が長音であることも関係していると思うが、試しに、「ワン」の方を強調してみると…。
一拍目に強調(アクセント)を置くと変なところに力が入りませんか、という一例だ。

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提案

難病を理由に職を辞す方がらっしゃいます。

私も(難病ではないが)体調不良を理由に前職を退いたので、何とも言い難い思いはあります。

どうぞ、(完治とはいかないのでしょうが)しっかりご病気と向き合っていただき、体調が良い方向に向かわれんことを祈っております。

さて、この方は、難病により「政治的な判断を誤リかねない」ということを辞任の理由に挙げられたが、申し訳ありませんがが、それなら議員そのものを一旦お辞めいただいた方がいいと思います。

同じような難病に悩まされながらも日々お仕事に励んでいらっしゃる方は多々いらっしゃいます。私の身内にも「クローン病」という、やはり「指定難病」と向き合っている者がおります。

「辞任」報道があった日、同じ「潰瘍性大腸炎」と闘っていらっしゃる20代の方がテレビのニュースで紹介されていましたが、やはり、病気が原因でお仕事を辞め(換え)ざるを得なかったと…。

それでなくても、持病のある人は「仕事に影響をもたらす」と、もっと言えば「仕事ができないやつ」と見られてしまうことが往往にしてあります。

難病を理由に「政治的な判断を誤りかねない」と発言されたことは、難病に悩まされながらも日々お仕事に励んでいらっしゃる方々に、かえって肩身の狭い思いをさせかねないのです。難病に苦しんでいらっしゃる方々を排除することにもなりかねないのです

「こいつは難病だからミスしかねない、ちゃんと仕事できない」と初めからそのような見方しかしない輩は必ず出てきます。

そこで提案なのですが…

上述したように、「政治的判断を誤りかねない」のですから、一旦議員をお辞めいただいて、療養されながら、同じような難病に苦しむ方々とじっくり向き合われたらいかがでしょうか?

こうした方々が社会的に不利益を被らないよう手を差しのべたらいかがでしょうか?

沖縄、北方領土、広島、長崎、拉致被害…、私もそうなのですが、本当の気持ちというのは当事者にしか分からないものです。当事者の想いを理解(賛成や反対ということではなく)するよう努めてこられたとは思いますが、身をもって経験されていない分どこか「冷たさ」のようなものをあなたの言動や行動には感じておりました。

しかし、難病については身をもって経験されているのです。

同じように苦しむ方々の気持ちが分からないはずがない!

ご存知かと思いますが、「難病の患者に対する医療等に関する法律第5条第1項に規定する指定難病」は現在333もあります。

しばらくは国会の動きなども気にされず、これら難病に苦しむ方々の声を丁寧に聞き、「政治的判断を誤らない」との確信を得られたのなら、再度国政の場で「難病対策」に取り組まれてはいかがでしょうか?

今あなたにできることはそれだけだと思います、安倍晋三さま。

(2020年8月31日)

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